ホーミータイツ☆リレーエッセイ

ホーミータイツのメンバーによる、独り善がりなエッセイ。
あなたを強く抱きしめタイツ!
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| スポンサードリンク | - | | - | - |
心が雨漏りする日には
心が雨漏りする日には (青春文庫)

 「縁(えん)」というのは、自分でつくり出すものなのではないかと最近思う。

 「縁があって」というとき、偶然そうなったという風に思いがちだが、自分の人生の取捨選択の結果であるのだとすれば、偶然とは呼べないのではないだろうか。

「人間は無数にある選択肢の中で、自分が選べる選択肢だけを選んで生きている。選べない選択肢を選ぶことは絶対にないのである」
(中島らも『心が雨漏りする日には』)

 「できそうにない」とか「近づけそうにない」という思い込みが、理想や目標から人を遠ざけているんじゃないかと感じるときがある。そういう意味では「縁がなくて」という言い方も、言い訳じみて聞こえる。「縁」は自然発生的にあったりなかったりするものではなくて、自らつくり出すものなのだ。

 でも、「できそうにない」「縁がない」とあきらめることを選択するのも、別に悪いことじゃないとも思う。そのあきらめの先にまた別の「縁」が生まれる可能性だってある。いずれにしても、来るべきときが来れば、なるようになる。そういうとき、身体は自然に動くものだ。「運命」というものがあるんだとすれば、そういうことを指すんだと思う。

「『ああ、あのとき、酒を飲むのを控えていれば』と後悔しても何の意味もない。自分は『飲まない』という選択肢を選べない状態に、すでになっていたのだ」
「それをそのまま引き受けるしかないのが、おれという人間なのである」

(中島らも)

 僕は節操なく、何事にもちょこっとずつ足を突っ込むクセが昔からある。中学生で学校に行かなくなり、自分はみんなと同じようにできない、ということを自覚してから、自分が入れる“輪っか”がどこかにないものか、探して彷徨うクセがついてしまった。結果として、どこかに“輪っか”が見つかったかといえば、見つかったような見つからないような、そんな曖昧な感じを今は生きている。本音を言えば、どこかの“輪っか”に居場所を見つけて、そこでぬくぬくとじゃれ合って群れていたいのだ。けれどもどうやら、ひとつのところに留まらず、あっちこっちに足を突っ込んでウロチョロする、というのが僕の性分なのかもしれないと最近思うようになった。

 ソウル・フラワー・ユニオンの中川敬が言っていたことの意味が、今ならわかるような気がする。

「居場所がどこでもないのが自分の居場所」
「居場所がないのが居場所というかね」

(中川敬『中川敬 語録 1986〜2002』)

 “輪っか”には大抵ルール(暗黙のものも含む)があって、そのルールに従えないものは疎外される。「ねばならない」というものが苦手な僕は、そもそも“輪っか”に向いていないのかもしれない。実際に学生時代も、いろんなサークルに少しずつ友達がいた(つまり顔は広かった)けれど、僕はどのサークルにも所属していなかった。そのときの気分や都合でフラフラしていたのだ。

「八方美人でもいい、あちこちに顔を出して、アンテナを張り、少しでも自分が興味を感じるものを見つけようとするクセをつけることだ。そのうちに何が楽しいか、何が自分にフィットしているかがわかるようになる」
(中島らも)

 フラフラと彷徨うことを続けていると、数々の成功体験と失敗体験とを経て、自分のアンテナの感度が少しずつ研ぎ澄まされていくのがわかる。つまり、自分のアンテナへの信頼度が増すのだ。だから、「あきらめる」という選択も、さほど後ろ向きだとは思わない。感度良好の(と自分では信じている)アンテナを持ってしても、今の自分には「あきらめない」という選択肢を選ぶことはできなかった、ということだからだ。また懲りずにアンテナを張り続ければいいだけのことだ。

「情けないは情けないでええやないか、そこでへばりついて居直るってことも大事や」
(中川敬)
| ごとうはるか | 晴読雨読 | 04:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
たましいの場所
 物事が繋がっていくのは面白い。点と点とが線を結び、やがて丸みを帯びた輪郭を浮かび上がらせる。全く別のつながりで知り合った友人同士が知り合いだったり、現在起きている現象が歴史と深い関係があったり、遠い異国での出来事が自分の生活と密接に結び付いていたり、思いがけないところで異質だと思っていたもの同士が繋がったりする。こういう繋がりの発見は、本当に面白い。これは人生の醍醐味といっても大袈裟ではないかもしれない。“世間は狭い”という慣用句があるように、世の中の様々な人・物・事が互いに繋がりあい、この複雑で入り組んだ社会を形成している。

 金子光晴『流浪』(筑摩書房 2006.6)と、つげ義春『義男の青春・別離』(新潮社 1998.8)とを読んで、双方の作品にとても近いものがあると感じた。両作品とも自伝的色合いが強いせいもあるだろう。世代こそ違う両者だが、思春期の頃に横浜に行き密航を企てる姿などは、ぴったりと重なる。

流浪―金子光晴エッセイ・コレクション   義男の青春・別離

 そして最近ようやく早川義夫『たましいの場所』(昌文社 2002.7)を読んだ。名著であるという確信はあったものの、なんとなく機会に恵まれず、今まで読まずにいた。ページを繰り読み進めて驚いた。最初のエッセイで金子光晴の「反対」が、次のエッセイでつげ義春の「事件」が紹介されている。ちょうど僕が最近よんだ本の順番のとおりなのだ。読むべくしてこの本を読んでいるような気がして、なんだか興奮してしまう。

たましいの場所

 早川義夫は僕にとって大好きな音楽家であると同時に、誇らしく、またちょっぴり恥ずかしい大学の先輩なのだ。音楽家であることと同時にどうしようもなく人間であることが感じられる、生々しい美しさが早川義夫の歌の魅力だと思う。

 大学一年生のときの大学祭に早川義夫が出演した。当時は名前くらいしか知らなかったが、そのステージを目の当たりにして、なんて変な人だろうと思ったのを覚えている。その次に出演した遠藤ミチロウも同様であったが、変なのだ。それは絵に描いたようなおかしさではなく、よくわからないけど、なにか、変なのだ。それまで持っていた自分の“変”という概念からもちょぴりはみ出したおかしさであった。それは今にして思えば、その人の表現に対する誠実さから滲み出ていたものなのではないかと思う。おかしさは誠実さであり、優しさであり、いやらしさ。おかしいことは正直であるということなのだ。そのおかしさは、当時の僕にとっては反発さえ感じるものであったが、僕の心の中に引っ掻き傷を残し、幾年かをかけてミミズ腫れとなって、後にヒリヒリと疼きだす。

 本を読んでもわかるが、早川義夫は読み手が照れてしまうくらいに正直だ。『たましいの場所』には、恥ずかしくて他人には言えないことや、言っても共感してもらえなさそうなことが、飾り気のない素直な言葉で綴られている。読んでいてとても落ち着くし、同時に不思議と熱くなってくる。添い寝したくなるような本だ。

 ちなみに、『流浪』は金子光晴エッセイコレクションの第一巻であるが、その第二巻にあたる『反骨』の解説は、『「A」』(角川書店 2002.1)や『放送禁止歌』(光文社 2003.6)の著者、森達也が書いている。元々金子光晴を知ったのは、『放送禁止歌』にも登場する高田渡や友部正人の詩を読んだのがきっかけだった。高田渡は金子光晴の詩を歌にして歌っていたし、友部正人の「絵葉書」という歌には死後の金子光晴が登場する。

反骨―金子光晴エッセイ・コレクション   放送禁止歌   友部正人

 自分の好きな人や好きなものが繋がって連鎖していくことはとても面白い。すごく興奮する。でも、その繋がりは果てしがなくて、やがてぐるりと一周して、もといたところにかえってくる。好きなものも嫌いなものも、必ずどこかで繋がっていて、結局はどちらも同じようなところにあるんじゃないかと、最近は思う。
| ごとうはるか | 晴読雨読 | 11:25 | comments(2) | trackbacks(0) |
1

一番上へ